はもとより閉会中も、連日、電話をかけまくり約束をとりつけることが日課となった。ときには、事務局だけで陳情せざるを得なくなることも生じた。このような状態が九カ月間続くこととなった。祝日法は、衆議院では内閣委員会、参議院では文教委員会にかかる。議院運営委員会もある。国会活動は、結果的には三つの会期にまたがるものとなったが、会期が変わるごとに委員や役員に異動があり、新たな委員や役員に陳情・要望を行う必要がある。
国会の委員会での検討の前に、各党の関係部会や役員にも頼みに行かなければならない。こうして、国民の祝日「海の日」制定の陳情対象議員は、述べ千数百人を数えるに至った。

中央ばかりではない。地区推進国民会議においても、選挙区に帰郷中の議員に対し、役員や職員による陳情を行った。
これらの活動の結果、当初「海の記念日」も「海の日」運動も初耳という議員が多かったが、平成六年の十二月に入るころには、大半の国会議員が国民会議の活動を知ることになったと思われる。
平成六年の通常国会では、予算案審議の大幅な遅れのため、「海の日」制定のための祝日法改正案の検討も遅れた。連立与党においては、総理府および国民会議からのヒアリングが行われた。また、会期末近く六月二十一日になって、ようやく自民党の党議決定が得られるとともに、同日の衆議院内閣委員会理事懇談会で論議された。しかし、羽田内閣は六月二十五日に総辞職し、一切の国会の会議は開かれなくなってしまった。国会は六月二十九日に新しい総理大臣に社会党の村山富市委員長を指名しただけで閉会となった。
平成六年九月三十日から召集された臨時国会では、政権は通常総会の自民党を除く連立政権から自民、社会、さきがけの連立政権へと大きく転換していた。法案の取り扱いで主導権を握るのは与党である。三党のうち、前述したとおり自民党は既に党議決定が行われていたが、他の二党は「海の日」の検討はこれからという状況であった。
社会党は、かつて国民の祝日「平和の日」(八月十五日)を制定すべく議員提案したことがあるとのことで、戦後五十年の前年ということもあって、当然のことながら、党内では二つの祝日案について論議が交わされた。容易には決着がつかなかった。しかし、海事振興連盟所属議員の熱心な働きかけ、国民会議の副会長でもある中西昭士郎組合長ら全日本海員組合と一緒になった国民会議の連日の社会党議員めぐり、労働組合「連合」の意向などが相乗的に効果を上げ、約一カ月の検討の後、「海の日」を先行して祝日とすることについて党内の合意が成立した。
さきがけは、さらに難航した。所属国会議員が二十一人と少ないさきがけでは、各議員が諸会議をかけ持ちしていることが多く、会議を開くこともなかなか大変な様子であった。何回かの議論の後、全体としては「海の日」賛成者が多数を占めるという情報は漏れ聞こえてきたが、なかなか党としての結論を出してもらえなかった。結論を出す前に、総理府および国民会議から説明を受けるヒアリングを行ったほか、関係省庁の意見や経済界、労働界の意向の確認、党内のアンケート調査などが順次実施されたようである。ようやく十一月末近くなって、党としての態度が決められた。
一方、野党においては、一部有力議員の中に、臨時国会のような時間の少ない場で、国民の祝日を議論することの是非などで慎重論もあったが、大勢としては「海の日」賛成であった。
結局「海の日」の趣旨には賛成であるが、七月二十日を祝日とすることには反対という共産党を除き、十一月末ごろには、各党とも
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